遊覧図書室 3

『五十五枚の棚田』
冨野井敏明(青分社1500円)
「全国から田んぼの写真を写しにたくさんの人が来るようになりました。田植えの時と収穫は早朝から三脚かついでカメラ持った人でいっぱいですよ」
中越地震が起きる前のことでしたが、新潟県山古志村(現長岡市)を訪ねた時、民宿の人が言ってました。

写真愛好家の間では、棚田のある風景は桜や紅葉や滝の名所並んで人気被写体なのですね。棚田写真コンテストなんてのもあるようです。大平野の広い
田んぼを乗用田植え機が走る田植え風景や大型コンバインが走ってるだけの稲刈り風景じゃ絵にならない。古き日本の懐かしき田園風景としては、棚田
でなければ絵にならないということのようです。
各地の棚田風景を撮影した写真を見ましたが、いずれもじつに美しくまさに「傑作」としての絶景が再現されていました。が、それらの写真は桜や滝や
紅葉の風景を眺める被写体としてあるだけで「構図」としての点景として人物が写り込んでいる写真もありますが、労働の姿はなく、人の暮らしも見え
てきません。

『五十五枚の棚田』冨野井敏明(青分社1500円)

その美しい棚田の景観について、本書で著者は次ぎのように記しています。
「棚田は、食糧生産をはじめ、洪水防止、水資源かん養、土砂防止などさまざまな機能を発揮しているが、最近は農山村の景観上からも貴重なものとさ
れるようになっている」。
「たしかに棚田の風景は美しいし、棚田の集落は農村らしい静かなたたずまいを感じさせる。その景観は、訪れる人の心をとらえて、その自然の中にそ
のまま溶け込みたいような、いつでも住みつきたいような大きな感動を与えるものであろう。そして、この景観を守らなければ!棚田の保全を支援する
活動を!異論なくそんな心情が胸にあふれてくるのであろう。しかし、その棚田もいざ守るとなれば大変なのである。一時的な農村回帰や郷愁といった
ものでは保全しきれるものでないのである。ましてや農地として作物を生産し、それで生きようとなると、いまでは逆に経済的に負担となる。急傾斜地
に少しでも食糧を生産し、貧しくともそこに生きようとした農民の、血と汗の染みついた何百年の歴史の中に、棚田は守られてきたのである」。
本書は、広島県の中山間地で農業に従事しつつ農業・農村問題に取り組んできた著者が綴った村の記録であり、農業に生きる人、生産現場からの熱い
メッセージです。

著者が農業に生きようと決めた20歳のころの水田は、大小55枚の棚田でした。それが現在は圃場(ほじょう)整備で12枚に拡大整理されています。田が
大きくなったことによって耕作は合理化されましたが、採算のとれる農業にはなっていないと言います。いま棚田地域では担い手の高齢化などから耕作
放棄など管理も行き届かず、次第に荒廃する運命にあるのです。

著者は自身の農の歴史を振り返る。「青春から老いの入り口まで戦後の農村の移り変わりは汗と涙の農村変革史でありました。食糧不足から増産へ、そ
して迎えたのは減反と生産調整でした。新農村建設事業、一次二次、そして新農業構造改善事業、選択的拡大を目指す農業基本法と、打ち出された施策
も決定的なものにはならず、自立できる経営規模とは何だったのか、まるでゴールなきマラソンを走らされた農業だったのか・・という虚脱感は否定で
きないと思います」。

本書の後編は、青春時代に詠んだ短歌で綴る農村日記だ。

 ことごとに旧きことのみ言ふ父に逆らひは見せず二重俵編む
 稲こぎは夜業とならむ電線の切れをつなぎて納屋に燈を引く
 さくら見に行くとバス待つ友らより眼そらして薯植うる朝
 昏なづむ棚田の小道に肥負ひしこの豊作もかりそめならず
 ふりつづく雨のあい間を刈りすすむ稲は倒れしままに実生す
 刈り稲の少なかりしは誰も言わず夕餉の卓に揃ひ対かえり
 一枚ごとに父祖より伝ふ呼称もつ五十五枚の棚田に生きむ
 陽の没ちし棚田の稲を背負ふ小道遠く祖父より継ぎてつぐまま
 草むらを分けつつ棚田に水ひく農の未来を語り来し真夜
 牛飼ふも米を作るも疎まるる世にありてなお農に依りつつ

現在、全国の総農家数は298万1000戸で、我が国の農産物の自給率は40%を切っています。コメはさらに生産調整つまり減反面積が拡大される。米価は下
がり、コメ作り農家は窮地にたたされている。減反した田には大豆やソバなどの転作作物を植えるところが増えていますが、これから収穫する間近のイネ
を刈り取ってしまう「青刈り」も行なわれています。かつて庄内平野でもうすぐ穂が出ようとするイネを刈り取る青田刈りシーンを撮影したことがありま
した。きちんと刈り取ったかどうか、役場の人が実測してもし不足の場合は刈り取るように支持するのです。なんともいやりきれない眺めでした。
「稲は、自然と農民の合同の作物であり、機械製品ではない。主食としての米、農業として稲作に終焉が近づくことを感じさせる施策であり、農民の心
臓をえぐる稲の青刈りである」と著者は書いています。
テレビでは毎日のように『食』の番組が流れています。食べものがゲームの道具に使われていたり、早食いだの大食いだのといったアホ番組もやたらにある。
いわゆるグルメブームは相変わらず続いていて、まさに飽食ニッポン。一方で有機栽培だの無農薬野菜だの安全食品といったものへの関心も高まっているよ
うですが、それらは食材としての興味だけで、どこで、どのような人が、どのように作っているかということへの関心は薄い。今年も全国各地の棚田百選の
地にはずらり望遠レンズとと三脚が並んだのでしょうか。
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遊覧船図書室 4

『苦あり楽あり 海辺の暮らし』川口祐二(北斗出版・2000円+税)
『光る海、渚の暮らし』川口祐二(ドメス出版・2000円+税)  
十年も前のことになりますが、スーパーマーケットの魚売り場に行くと、連日『おさかな天国』という全漁連が販売店向けに制作した歌が流れていました。
“サカナ、サカナ、サカナ、サカナを食べるとー、アタマ、アタマ、アタマがよくーなるー”。BSE(牛海綿状脳症)偽装肉事件で食肉離れが起きたころ
のことでした。さて、今「おさかな天国」はどうなってるのでしょうか。農水省の食の調査によると、若者たちでよく魚を食べるのは20パーセントだそうです。

『苦あり楽あり 海辺の暮らし』川口祐二(北斗出版・2000円+税)
『光る海、渚の暮らし』川口祐二(ドメス出版・2000円+税)  

著者は三重県在住。現在鳥羽市の海の博物館評議員。北海道各地から対馬、沖縄へと日本全国の漁村を長年巡り歩いて漁師や女たちの暮らしの聞き書きを続け
沿岸漁業の環境問題にも取り組んできた。著書に『海辺の歳時記』『渚ばんざいー漁村に暮らして』『島に吹く風』『潮風の道』などがある。

『苦あり楽あり海への暮らし』では、昆布拾いの北海道根室市、ハタハタをとりスケトウを追う新潟県能生町、ヒジキとシラスの千葉県勝浦・鴨川市、父子孫
三代の生節づくりの三重県尾鷲市、アワビで暮らす長崎県五島列島の一つ小値賀島。イワシとテングサの宮崎県島浦島。コノシロ漁の熊本県島原湾・・・全国
18の漁村を訪ねる。「辺境の地にも、都市の中の漁業集落にも、それぞれに苦もあれば楽もあるドラマがかくされている。庶民がつむぎ出す暮らしの『うた』
を聞かせていただいた。潮まみれ、汗まみれになって働き続けてきた人びと。語り口は呟くようであるが、どこかやさしい。時には明るさいっぱいの感すら
あった。そこに、本当の豊かさがあり海辺特有の文化があることを知る」と著者。

淡々と綴られていく文章の中に、人間の都合で干潟が消え、潮の流れが変わり、海が殺されていく渚への重い怒りが響いてくる。

宮崎県島浦島で古老たちから話を聞く。「イセエビもね、たくさんいたらしいですけどね。海女はいない島でね、しかし、戦前、三重から海女さんが仕事に来
ていたのを覚えていますよ。この島はテングサがよくとれました。口開けがあってね。解禁だね。ジャレンという道具で採りましたですよ(中略)これはきつい
仕事でしたよ。手の皮がむけたからね。麻縄をたぐるでしょ。重かったね。それでもテングサ採りで1年の借金すっかり返したんだからな。それだけ暮らしの
糧になったんだね。それが今は一つもない」

三重県尾鷲市行野浦の漁業、西保雄さんはカツオの尾びれで爪楊枝を作る。「おじさん、廃物利用で、環境にやさしいし、ええな、と甥の連中が言いますんや」
「船を岸に繋いできますとな、堤防の内側と外側とでは、船底の汚れがまるで違う。家庭排水が流れ込む内側では、のりもフジツボの類のものもつかんですわ。
船のためにはええかも知れんが、海の動植物にはそれだけ悪影響があることを、船の底が示しているんです。チャンポコの味が違うでね。堤防の中の貝は、まず
くて食えん。岩ガキすらそうやで」チャンポコというのはクボガイなどの小粒の巻貝のことで、熊野灘の漁村の人びとにはかけがいのない淡白源であり自然の恵
みの一つだという。

ふつうの人びとの苦労話を聞きながら、いま、を考える旅が続く。『光る海、渚の暮らし』では、北海道から沖縄、対馬までこれも18漁村を訪ね、40人の人びと
との話を綴る。漁の話、暮らしの話とともに、戦争の悲惨さを記録する項が加わる。「何人かの人がぽつりと洩らす戦争体験のひと言が心に響いた」と著者。 
昭和24年、機雷爆発で弟二人をなくしたという新潟名立の漁師、常盤紀一郎さんの話。浜に流れついた一個の機雷の爆発によって63人の少年、幼年の命を一瞬に
して奪った。「機雷が爆発したとき、常盤さんは沖で漁をしていた。音は聞えなかったが、黒い煙があがったのを見ている。火事ではないかと思ったと言う。
常盤さんは刺網で小ダイをとっていた。豊漁に沸いた年であった。その時に書かれた毛筆の綴りが紹介されている。
「源助の裏へ来たときに、藤平の三男三浦孝(五年生)がといたに乗せられてくるのに出合った。顔はまっ黒、着ている服は吹き上げた水のために、
ジタジタ(じとじと)になりふた目と見られない姿。五右ェ門(ごよも)の裏には、五、六歳の女の子が顎のところをえぐり取られ、血に染まって仰向けに倒れて
いる。近右ェ門(こんにょも)の裏には、大人の女がうつぶせになって倒れている。小生の家の裏に来たときは、ああ、この世にこんなことが、こんなむごたら
しいことがあるものか、体がしびれてきて、ふるえて動けなくなるようであった」。

著者は綴りを読み「慟哭という言葉そのままの記録が、私の膝の上にあった」と書く。

「戦争したらあかん。今まで私らこんなにして漁業してこられたのも、平和やったからやでね。このことはみんな忘れたらあかん」と桑名市赤須貝でハマグリ
をとる漁師の話。「そこに兵隊がいたんだよね。そこへ爆弾が落ちてね。観測隊もいたし、砲台もあったしね、あのころはおとろしいてね」と対馬の海辺で女
性が呟く。著者はあとがきで言う。「戦争の悲惨さだけは、これからの世代には経験させてはならない。だが、平和が否定されようとしている。むずかしい時
代になった。それだけきな臭い潮流の中で、われわれ一人ひとりが試されているといえるだろう」「漁村の様変わりもはなはだしい。魚はとれない、後継ぎも
いない。どの浦浜もないないづくしのことばかり。年を追って渚も変貌した。地域開発という錦の御旗は、限られた自然環境を破壊し続けてきた。これもある
意味では、人間が自然に挑んだ戦争ではないのか。渚や沿岸域が犠牲になった。日本の海岸は満身創痍である。この傷ついた自然をどう回復するのか。どうし
たら回復を速められるのか。この思考が、今求められている。これなくして漁村の再生はない」。

巨大干拓、原発誘致、産業廃棄物投棄・・・。海辺の暮らしが侵される。人間の都合で干拓が消え、潮の流れが変わる。海が殺される。渚に、重い怒りの声が
響く。そして、時代はなんとなくキナ臭い。
海辺を旅するカメラマンは、海の光と風の気分をさらりと眺めて通り過ぎていきます。干拓の景色も原発海岸の景色もテトラポットの海浜も老人の渚も、写真
の中では美しい風景です。
ところで、魚は食べるのが面倒だから嫌いだという若者たちも、回転寿司はよく食べるらしい。養鶏場のニワトリがエサを食ってるって感じなんだよね、と言
いつつ私もちょくちょくエサを食ってます。椅子に腰かけるといつも思うんですね。回ってる寿司皿にそれぞれの輸入国の旗をたててみたらどうかなって。
ルーマニア、ロシア、カナダ、チリ、アフリカ、スペイン・・・世界がぐるぐる回ります。さて、日の丸を立てる皿はあるんでしょうか。

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